歴史の人

日本という国の歴史を作って来た人々

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鎌倉に武家によるの政権を打ち立てた源氏の棟梁 源頼朝

 

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**日本の美しい言葉 和歌を観賞しましょう**

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鎌倉幕府を開いた源頼朝は、清和源氏の棟梁、源義朝の三男として生まれます。

 

1159年に起こっ平治の乱で父と兄が討死すると、捕らえられ伊豆国に流されます。


20年の流人生活の後、仁王による平氏打倒の令旨を受け取ると挙兵します。


初戦の石橋山の合戦では破れますが、その後、関東一円の豪族を糾合平定し鎌倉に一大勢力を築きます。


頼朝自身は鎌倉から動かず、弟達を代官として軍を進めます、同族の木曽義仲を打ち破り、平氏を西国に追い込みます。


壇ノ浦に平氏を滅ぼすと、次に戦功のあった弟の義経を追放し、義経追捕を理由に諸国に守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせます。


日本中で唯一残った対抗勢力の奥州藤原氏義経をかくまったとの理由から、追討の院宣を引き出し滅ぼします。


征夷大将軍に就任した頼朝は、諸国守護権と東国支配権を得て、鎌倉に幕府を開きました。


鎌倉幕府から始まった武家による政権は、その後明治維新大政奉還まで、役680年間存続することになります。

 

源頼朝(みなもとのよりとも)
1147~1199年 享年53

 

 

都から平氏を追い落とした武将 源義仲

 

 

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木曽義仲源頼朝義経の従弟になります。

 



源義朝の弟で、武蔵国に勢力があった源義賢の次男として生まれます。


父が、義朝の子、為平に討たれると信濃の木曽に逃れ、豪族中原氏のもとで育ちます。


1180年に以仁王による平氏追討の令旨を受け取ると木曽の地で挙兵しました。


翌年、越後の豪族、城氏を打ち破り、1183年には、平氏の大軍を倶利伽羅峠で撃破し、北陸路から一気に京に攻め込み、平氏を追い払いました。


京に入った義仲は、後白河法皇と対立し、法住寺殿に攻め込んで源頼朝追討の院宣を無理やり出させてしまいます。


これに対し頼朝は、弟の範頼、義経に義仲討伐のため上洛させます。


両軍は、勢田・宇治で戦い、義仲は討ち死にします。

 

源義仲木曽義仲)(きそよしなか)
1154~1184年 享年31

 

 

 

公家政権から武士主体政権に変転するなかを生き抜いた天皇 後白河

 

 

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後白河法皇は、第77代天皇です。

後白河法皇



29歳のとき、弟の近天皇の急死より天皇に即位します。


この皇位継承をめぐって兄の崇徳上皇と争った保元の乱に勝ち抜きましたが、その後平清盛の台頭をゆるします。


平清盛による平氏政権、そして平氏に変わった、源氏による鎌倉幕府設立という、公家から武士に政治勢力が変転する過程で、34年に渡り院政を行い朝廷を守りました。


平清盛木曽義仲源頼朝、などその都度の武士権力者から幾たびの幽閉や院政停止に追い込まれますがそのたびに復権します。


後白河法皇が出した追討令旨は、源氏追討を平氏に、 平家追討を源氏に、 木曽義仲追討を源頼朝に、 源頼朝追討を木曽義仲に、源頼朝追討を源義経に、 源義経追討を源頼朝に、奥州藤原氏追討を源頼朝に、 など、その時々の情勢で変転しています。


このようにしてその後の朝廷と武家の関係の基を
築きました。

 

後白河法皇(ごしらかわほうおう)
1127~1192年 享年66

 

 

 

漂白の歌人 西行

 

 

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西行は、平安末期から鎌倉初期の歌人です。

 

西行



武門の名流である、秀郷流藤原家に生まれ、朝廷の警護をする北面の武士として勤めていました。


俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といいます。


23歳のとき、突然、武士としての無常観を思い家も妻子も捨てて出家してしまいます。


出家後、嵯峨に草庵を結び、西行と称し、陸奥国や四国などへの旅を重ね、多くの和歌を残します。


63歳のとき、東大寺復興勧進の旅にでた西行は、鎌倉の地で将軍源頼朝に面会します。


世のことなどを教えられた頼朝は、黄金の置物を贈ります。


西行は、退出のさい、門前で遊ぶ子供たちに、黄金の置物を渡し立ち去ります。

 

願わくは

花の下にて春死なむ

そのきさらぎの望月のころ

 

こう読んだ西行は、生涯を諸行無常を常とし漂白歌人として、望んだように桜の季節に亡くなりました。

 

西行の歌は、のちの世の言葉文化に大きな影響をもたらしたと言えるでしょう

 

西行(さいぎょう)
1118~1190年 享年73

 

 

 

鎌倉幕府を起こした頼朝や義経の父で清和源氏の嫡流 源義朝

 

 

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源義朝は、清和源氏嫡流として、京で生まれましたが、

源氏の内紛により、都から東国へ移り育ちます

源義朝



東国へ下向した義朝は、鎌倉を中心に勢力をのばし、東国の豪族を傘下に納め強い基盤を持ちます。


1156年の保元の乱では、父の為義や弟の為朝と相対し後白河天皇方として平清盛とともに戦い勝利を得ました。


しかし、乱後、父や弟を処刑しなければならず、源氏の勢力を大きく失いました。


1160年には、後白河天皇平清盛に対抗して平治の乱を起こしますが破れます。


東国に向けて逃避する途中、尾張国で家来の長田忠致に入浴中襲われ殺されてしまいます。


義朝の子の頼朝義経が生き残り、その後の歴史を作ります。

 

源義朝(みなもとのよしとも)
1123~1160年 享年37

 

 

 

初の武家による政権を樹立も公卿になった 平清盛

 

 

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平安時代末期に平氏の棟梁、平忠盛の嫡男として生まれます。


父、忠盛は宋との貿易を行い、兵力、財力を蓄えていました。


父の死後、平氏の棟梁になった清盛は、1156年に起こった保元の乱後白河天側にたち勝利を納めます。


その3年後に保元の乱で共に戦った源氏の棟梁、源義朝平治の乱で戦い、これにも勝利します。


保元の乱平治の乱で、平氏以外の有力武士が滅亡したため、清盛は朝廷の軍事力、警察力を掌握し公卿に代わる武士による政権を樹立します。


武士として、初めて正三位の参議になったのをきっかけに1167年には、太政大臣という最高官職に就きます。


平家一族も日本66国のうち半数の国を支配し、荘園は全国に500以上という繁栄の時代を築きました。

 

「平家にあらずんば、人にあらず」と平時忠(清盛の義弟)が誇ったほどでした。


平家による専横が激しくなると朝廷では、後白河法皇中心に反平氏の気運が高まりだします。


1180年、日本各地の武将たちに打倒平氏の令旨が以仁王(もちひとおう)の名で、発せられます。


伊豆に流されていた源義朝の遺児、頼朝は令旨に応じて立ち上がり、源平の争乱が始まります。


清盛は、源平の戦いの結果を待たずに、病を発して息を引き取ります。

 

平清盛(たいらのきよもり)
1118~1181年 享年64

 

 

 

奥州平泉藤原4代の初代 藤原清衡

 

 

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藤原清衡は、奥州藤原4代の初代です。

藤原清衡

平安時代の奥州に、京にも勝る文化を約100
年にわたって開いた平泉藤原氏の初代です。


清衡は、前九年の役滅亡した安倍氏の母と亘
理の権大夫という官職をなげうって安倍氏に帰属
した藤原経清の間に生まれました。


父経清の死後、母が前九年の役で敵対した出羽の清原氏の嫡男、清原武貞と再婚したことで清衡も清原清衡と名のります。


20年後、陸奥、出羽に勢力を伸ばした清原氏内乱、後三年の役が勃発すると、清衡は源義家の力を借りて勝利します。


奥州全域の勢力権を得た清衡は、父の藤原姓に戻藤原清衡と名乗り、平泉の地に政治文化の中心になる中尊寺を建設します。

 

藤原清衡(ふじわらのきよひら)
1056~1128年 享年73

 

 

 

朝廷の侵略に抵抗し続けた陸奥の国の武将 安倍貞任

 

 

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安倍貞任は、平安時代中期のは陸奥国の武将です。



朝廷の支配に帰属してい陸奥出羽国蝦夷(え
みし)は俘囚(ふしゅう)と呼ばれていました。


陸奥の俘囚、奥六郡の豪族、安倍氏の棟梁であった貞任は、朝廷からのたび重なる侵略に断固反意を表し、派遣された源氏軍と約12年にわたって戦います。
前九年の役


戦いは、朝廷側から安倍に帰属した貞任の妹婿の藤原経清や弟の安倍宗任などと協力し、終始源氏軍を破り続けます。


1062年になり,朝廷軍は出羽の俘囚の長、清原氏と結び安倍軍を攻めます。

 

安倍貞任は、とうとう厨川の柵に追詰められた、安倍一族は滅亡します。


しかし安倍の血はその後、各地で生き続け日本史上に大きな影響を与えます。


貞任の妹と藤原経清の子は、前九年の役で父経清が
殺害されたのち、清原氏に引き取られます。

21年後
清原氏の内乱、後三年の役に勝ち抜き、陸奥、出羽両
国を支配します。

藤原清衡、平泉藤原4代の祖になる人物です。


貞任の嫡男は父と共に厨川で死にますが、次男高星丸は、津軽地方へ逃れ豪族安東氏の祖になったとされています。


貞任の弟、宗任は、厨川で投降しますが、許されて九州に流されます。


源平時代に平家の水軍として活躍する松浦氏は宗任の流れとされています。

 

安倍貞任(あべのさだとう)
1019~1062年 享年43

 

 

 

東国武士団と源氏の絆を強めた源氏の武将 八幡太郎義家

 

 

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清和源氏嫡流として生まれた義家は、石清水八幡宮元服をしたことから八幡太郎と称しました。

八幡太郎義家



陸奥守の父頼義に従い、奥州安部氏との戦いに13歳で初陣します。


1051年に始まったこの戦いは、奥州安部氏と朝廷軍の全面的な戦争で、終始安部氏が優勢に経緯していました。


苦戦を強いられていた、頼義、義家親子は、出羽清原氏に援助を頼み、1062年ようやく安部氏を平定します。


この役を前九年の役とよびます。


前九年の役から21年後、奥州の地に威を張っていた清原一族に内乱が起きます。


源氏の棟梁となっていた義家は、清原氏の内乱に介入し、清原家衡出羽国金沢(かねさわ)で討ち取ります。

この役を後三年の役とよびます。


朝廷は、後三年の役は義家の私戦であるとし、何の恩賞も出しませんでした。


しかし、義家は自分に従って戦い抜いた東国の武士団に私財をなげうって恩賞として与え、源氏と東国武士団の絆を強固なものとしました。

 

後に平氏政権を破って鎌倉幕府を作り上げた、源頼朝と東国武士団の絆は、この時に出来たものとなります。

 

源義家(みなもとのよしいえ)
1039~1106年 享年68

 

 

 

奥州藤原氏の祖となる武家藤原氏 藤原秀郷

 

 

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藤原秀郷の出自は、藤原氏北家の左大臣の藤原魚名の子孫と伝えられています。


幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田(とうた)ともいわれていました。


延喜16年(916年)下野国の在庁官人のとき、隣国上野国と抗争を起こし、一族17名とともに流罪とされました。


しかし、秀は命に服さず唐沢山(現在の佐野市に城を築き勢力を保持しました。


天慶2年(939年)、平将門が関東8か国(上総・常陸・上野・下野・武蔵・相模・伊豆)の国府を攻めたて関東地方の大部分を支配してしまい、自ら新皇と称しました。


秀郷は平貞盛と連合して、将門の軍を下総国幸島
において攻め滅ぼします。


これを天慶の乱といい、秀郷はこの功績により押
領使から下野守になります。


さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、鎮守府将軍に叙せられ、死後、贈正二位を追贈されました。


その後、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。