歴史の人

日本という国の歴史を作って来た人々

歴史人リスト **厩戸皇子・中大兄皇子・中臣鎌足・高向玄理・和気清麻呂・鑑真・桓武天皇・坂上田村麻呂・阿弖流為・最澄・空海・菅原道真・紫式部・藤原純友・平将門・藤原秀郷・安倍貞任・藤原清衡・平清盛・源義朝

死を賭して皇室の系統を守った忠臣 和気清麻呂(わけのきよまろ)

 

 

**相模国のむかし話**

**日本の美しい言葉 和歌を観賞しましょう**

**日本の海で釣れる釣り魚**

 

和気清麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族です。

和気清麻呂

769年に起きた、宇佐八幡宮の神託事件は、時の称徳天皇に宇佐八幡神の神託として

道鏡皇位に就かせれば天下太平になる」

が奏上された事から始まります。


これは道鏡皇位を望んで企てたこととされています。


天皇は、神託の真否を確認するために、和気清麻呂を召しだし勅使として宇佐八幡宮に向かわせます。


権力を掌握していた道鏡に異を唱える者は、死を覚悟するものでした。


しかし、清麻呂宇佐八幡宮から持ち帰った神託は、

「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」

というものでした。


自らの命をかえりみずに皇室の系統守ったのです。

 

この後、道鏡が失脚すると清麻呂従五位下に任官し官界に復帰します。

 

桓武天皇が即位し平安京遷都があり平安時代になると、清麻呂の官位も上がり政府の高官として、土木事業に大活躍をします。


日本国の皇室の系統を身を持って守ったことで、日本史上日本国の忠臣として称えられています。

 

和気清麻呂(わけのきよまろ)
733~799年 享年66

 

東京の皇居大手濠に銅像が設置されています。

 

 

遣隋使として30有余年中国で過ごした国博士 高向玄理(たかむこのくろまろ)

 

 

**相模国のむかし話**

**日本の美しい言葉 和歌を観賞しましょう**

**日本の海で釣れる釣り魚**

 

高向玄理は、大化の改新の指導者です。

高向玄理

 

608年に遣隋使小野妹子に従って隋に留学生として渡ります。

 

共に渡った留学生には、南淵請安がいました。


618年には、隋が滅亡し唐へと変わりますが、高向玄理は、30年余りを現地で過ごし、640年に留学を終えて帰国しました。

 

645年に乙巳の変が起こるると、共に中国で学んだ僧の旻(みん)と新政府のに国博士として政府の最高顧問となり、改新を大きく進めました。


649年、朝鮮半島をめぐる政情が悪化すると、遣唐使として長安に向かい唐の皇帝皇宗と会見をしますが病に倒れ亡くなりました。

 

高向玄理(たかむこのくろまろ)
?~654年

 

 

大化の改新を断行した飛鳥時代の政治家 中臣鎌足(藤原鎌足)(なかとみのかまたり)

 

 

**相模国のむかし話**

**日本の美しい言葉 和歌を観賞しましょう**

**日本の海で釣れる釣り魚**

 


遣唐使として、唐に留学していた南淵請安の塾にて儒教を学び秀才としての名をはせました。

中臣鎌足

645年、中大兄皇子と諮り

塾でともに学んでいた、当時の政治を主導していた蘇我氏の嫡男、蘇我入鹿を暗殺し、頭首の蘇我蝦夷をも自殺に追い込みます。

これが、乙巳の変(いっしのへん)です。

 

蘇我氏を滅ぼし、その功績から内臣に任じられた鎌足は、中大兄皇子の側近として、大化の改新を断行して行きます。


改新された政府では、内大臣となり近江大津宮の遷都や全国の戸籍の作成など律令政治の基礎を築きました。


669年に天智天皇(中大兄皇子)から当時の最高冠位である大織冠(たいっしょっかん)と藤原姓を賜ります。


その後の摂関家や公家となる藤原氏の祖です。

 

中臣鎌足藤原鎌足)(なかとみのかまたり)
614~669年 享年56

 

 

クーデターから大化の改新 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

 

 

**相模国のむかし話**

**日本の美しい言葉 和歌を観賞しましょう**

**日本の海で釣れる釣り魚**

 

中大兄皇子は、後の第38代天智天皇です。

中大兄皇子

645年7月10日にそれまで政治を専横していた蘇我入鹿を母の皇極天皇の御前にて、自らの刃で殺害し、それに伴い蘇我本宗家をも滅ぼしました。

 

これを巳の変を言います。

 


蘇我氏を滅ぼした後も自ら天皇の位には就かず、皇
太子として、ともに蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足政治の改革を行います。

これが「大化の改新」です。

 

663年に大陸に派兵した、白村江の戦いに大敗を喫します。

その後、667年に近江大津宮に遷都し668年には、天皇の位に即位しました。

 

戸籍の作成(庚午年籍)や近江令の制定など中央集権国家体制を進めましたが、天皇即位後4年で崩御しました。

 

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
626~671年 享年46

 

 

古代日本を律令国家に導いた摂政 厩戸皇子

 

 

**相模国のむかし話**

**日本の美しい言葉 和歌を観賞しましょう**

**日本の海で釣れる釣り魚**

 

西暦572年、31代用明天皇の第二皇子として生まれた厩戸皇子は、後に33代推古天皇の摂政となります。

聖徳太子

日本書記に”冠位十二階”と”十七条憲法”を定めたとあり、仏教を興隆させたとあります。


603年に制定された”冠位十二階”は、身分を家柄でなく個人の能力で制定するといった当時では、画期的な制度でした。


また、604年に制定した”十七条憲法”は、政治は天皇を中心に行われるという、その後の日本の政治精神の基になったものでした。

 

また、社会福祉事業として四箇院の制度を実施も行っています。


厩戸皇子の業績として、仏教の興隆は大きなものです。


中国の隋王朝小野妹子などの遣隋使を送ることで、仏教思想ばかりではなく、大陸の新知識を多く取り入れました。

 

これらの事柄から、当時の飛鳥文化も花開き日本国の新しい礎が定まったと言えるでしょう。

 

四十九歳でなくなった後、生前の業績を想い、”徳のある聖人” として聖徳太子と呼ばれるようになりました。

 

聖徳太子(しょうとくたいし)
厩戸王(うまやとおう) 574~622年 享年49