歴史の人

日本という国の歴史を作って来た人々

歴史人リスト **厩戸皇子・中大兄皇子・中臣鎌足・高向玄理・和気清麻呂・鑑真・桓武天皇・坂上田村麻呂・阿弖流為・最澄・空海・菅原道真・紫式部・藤原純友・平将門・藤原秀郷・安倍貞任・藤原清衡・平清盛・源義朝

朝廷の侵略に抵抗し続けた陸奥の国の武将 安倍貞任

 

 

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安倍貞任は、平安時代中期のは陸奥国の武将です。



朝廷の支配に帰属してい陸奥出羽国蝦夷(え
みし)は俘囚(ふしゅう)と呼ばれていました。


陸奥の俘囚、奥六郡の豪族、安倍氏の棟梁であった貞任は、朝廷からのたび重なる侵略に断固反意を表し、派遣された源氏軍と約12年にわたって戦います。
前九年の役


戦いは、朝廷側から安倍に帰属した貞任の妹婿の藤原経清や弟の安倍宗任などと協力し、終始源氏軍を破り続けます。


1062年になり,朝廷軍は出羽の俘囚の長、清原氏と結び安倍軍を攻めます。

 

安倍貞任は、とうとう厨川の柵に追詰められた、安倍一族は滅亡します。


しかし安倍の血はその後、各地で生き続け日本史上に大きな影響を与えます。


貞任の妹と藤原経清の子は、前九年の役で父経清が
殺害されたのち、清原氏に引き取られます。

21年後
清原氏の内乱、後三年の役に勝ち抜き、陸奥、出羽両
国を支配します。

藤原清衡、平泉藤原4代の祖になる人物です。


貞任の嫡男は父と共に厨川で死にますが、次男高星丸は、津軽地方へ逃れ豪族安東氏の祖になったとされています。


貞任の弟、宗任は、厨川で投降しますが、許されて九州に流されます。


源平時代に平家の水軍として活躍する松浦氏は宗任の流れとされています。

 

安倍貞任(あべのさだとう)
1019~1062年 享年43

 

 

 

東国武士団と源氏の絆を強めた源氏の武将 八幡太郎義家

 

 

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清和源氏嫡流として生まれた義家は、石清水八幡宮元服をしたことから八幡太郎と称しました。

八幡太郎義家



陸奥守の父頼義に従い、奥州安部氏との戦いに13歳で初陣します。


1051年に始まったこの戦いは、奥州安部氏と朝廷軍の全面的な戦争で、終始安部氏が優勢に経緯していました。


苦戦を強いられていた、頼義、義家親子は、出羽清原氏に援助を頼み、1062年ようやく安部氏を平定します。


この役を前九年の役とよびます。


前九年の役から21年後、奥州の地に威を張っていた清原一族に内乱が起きます。


源氏の棟梁となっていた義家は、清原氏の内乱に介入し、清原家衡出羽国金沢(かねさわ)で討ち取ります。

この役を後三年の役とよびます。


朝廷は、後三年の役は義家の私戦であるとし、何の恩賞も出しませんでした。


しかし、義家は自分に従って戦い抜いた東国の武士団に私財をなげうって恩賞として与え、源氏と東国武士団の絆を強固なものとしました。

 

後に平氏政権を破って鎌倉幕府を作り上げた、源頼朝と東国武士団の絆は、この時に出来たものとなります。

 

源義家(みなもとのよしいえ)
1039~1106年 享年68

 

 

 

奥州藤原氏の祖となる武家藤原氏 藤原秀郷

 

 

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藤原秀郷の出自は、藤原氏北家の左大臣の藤原魚名の子孫と伝えられています。


幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田(とうた)ともいわれていました。


延喜16年(916年)下野国の在庁官人のとき、隣国上野国と抗争を起こし、一族17名とともに流罪とされました。


しかし、秀は命に服さず唐沢山(現在の佐野市に城を築き勢力を保持しました。


天慶2年(939年)、平将門が関東8か国(上総・常陸・上野・下野・武蔵・相模・伊豆)の国府を攻めたて関東地方の大部分を支配してしまい、自ら新皇と称しました。


秀郷は平貞盛と連合して、将門の軍を下総国幸島
において攻め滅ぼします。


これを天慶の乱といい、秀郷はこの功績により押
領使から下野守になります。


さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、鎮守府将軍に叙せられ、死後、贈正二位を追贈されました。


その後、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。

 

 

日本史上唯一新皇を唱えた武将 平将門

 

 

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889年、桓武天皇孫の高望王(たかもちおう)は、平姓を賜与され臣籍降下平高望を名乗ります

平将門



長男国香、次男良兼、三男良将を伴って関東に赴いた高望王は、任期が過ぎても帰京せず、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国上総国に勢力を拡大し、武士団を形成しました。


平将門は、高望王の三男良将の子として生まれ、その領地から相馬小次郎と呼ばれました。


将門が平安の都で、藤原時平に仕えていたとき父の良将が急死します。


領地に戻った将門が直面したのは、伯父たちによる父良将の遺領の搾取でした。

 

将門は、新地の開拓に向かいますが、その土地も伯父たちや国府に圧迫迫害されます。


ついに両者の対立は武力闘争に発展し、935年伯父国香、良兼の連合軍と戦い伯父国香を討取ります。


その後、わずか2年で、常陸、上総、下総、安房上野、下野、相模、伊豆と8ヶ国を征圧した将門は、京の天皇に対し新皇を名乗ります。


新皇を名乗ってからわずか50日後、国香の子、貞盛と下野の豪族藤原秀郷の連合軍と戦った将門は、流れ矢にこめかみを射抜かれて戦死してしまいます。


将門は、常々朝廷勢力から受け入れられないばかりか侵略されてきた東国の人々の心の代弁者として、その悲劇的な死とも相まって人々に語り継がれています。


また将門の乱は、将門と戦った平貞盛の後には清盛が、藤原秀郷には平泉藤原氏が出るなど、後の武士の発達に大きな影響をもたらしています。

 

平将門(たいらのまさかど)
903~940年 享年37

 

 

平安時代に朝廷に対し反乱を起こした 藤原純友

 

 

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藤原純友は、平安中期藤原北家出身の貴族です。

 

 

四国の伊予に地方官として赴任し、瀬戸内海に跋扈していた海賊を鎮圧します。


純友は任期が終わっても都に戻らず、伊予の日振島を根拠地に海賊勢力を支配し、瀬戸内海全域を勢力圏に納めます。


893年、朝廷に対し反乱を起こした純友軍は、摂津、備前、播磨に侵略し翌年には、太宰府まで進みます。


同時期に関東でも平将門が反乱を起こしたことで、これを承平天慶の乱と呼ばれました。


941年、朝廷鎮圧軍により乱は終息しましたが、本格的な貴族による朝廷への反乱は大きな衝撃をあたえました。

 

 

世界最古といわれる長編小説「源氏物語」の作者 紫式部

 

 

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紫式部は 世界最古といわれる長編小説「源氏物語」の作者です。

紫式部

下級貴族であった藤原為時の子として生まれた紫式部は、

幼少より漢詩や文章に非常の才能があり、父、為時は男子でなかったことを嘆いたと紫式部日記に書かれています。

 

父の官職だった式部大丞から藤式部と呼ばれていました。

 

1001年夫の病死後、源氏物語の執筆を始め、1005年には、時の最高権力者の藤原道長の娘で一条天皇中宮彰子の女房として宮廷に仕えるようになります。


源氏物語は、宮廷生活のさまざまな体験をもとに書かれ続け全54帖、完成まで10年余りの歳月を費やします。


源氏物語は、当時の宮廷の生活模様、そして人々の心模様を知る上で極めて貴重な資料として、現在に至るまで読み続けられている日本文学史上最高のものとされています。

 

紫式部とは、死後、源氏物語の中に登場する「紫の上」から称されたとされています。

 

紫式部(むらさきしきぶ)
970年代~1019頃

 

 

怨霊から神様になった天神様 菅原道真

 

 

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菅原道真は、平安時代初期の学者であり政治家でした。

菅原道真

887年、時の最高権力者であった藤原基経は、宇多天皇詔勅で関白に推されるが、その詔勅古の中国の官「阿衡」に習えとの事があったため、基経は激怒し政務を放棄してしまいます。


これは阿衡の紛議と呼ばれています。


藤原氏の権力は、朝廷において絶大なものでした。


その藤原基経に、当時讃岐の国司に過ぎなかった、菅原道真が長文の意見書を送ります。


これにより、基経は怒りを納め一連の事件は収まります。


宇多天皇は、道真を深く信頼し4年後に都に戻し蔵人頭に抜擢します。


その後、右大臣まで昇進し多くの文化的実績を残します。


しかし、天皇の信任に公卿達の反感が増大し、901年に権力者藤原時平に無実の罪を讒訴され九州大宰府左遷されてしまいます。


道真は、大宰府の地で失意のうちに亡くなりました。


道真の死後、都では藤原氏の人々が相次いで早世したり、異常に発生した雷で多くの死者がでるなどします。


人々は、これを道真の怨霊の仕業として恐怖し、天神として祀りました。


「学問の神様」として、今も崇められる天神様です。

 

 

真言密教を布教した名僧 空海

 

 

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空海は、平安初期の名僧で真言宗の開祖です。

空海



20歳のとき東大寺受戒した空海は、804遣唐使船で唐に向かいます、同じ船には最澄いました。


唐に渡った空海は、長安の清龍寺で高僧恵果について真言密教を学びます。


唐より帰国した空海は、嵯峨天皇により高野山下賜され、金剛峯寺(こんごうぶじ)を開山します。


日本の仏教は、最澄天台宗空海真言宗により、旧来の奈良仏教から平安仏教へと変遷していきます。


空海は、全国への布教活動のかたわら、社会活動にも取り組み、灌漑用水の整備、庶民の教育施設の設立など多くの実績を残します。


死後、弘法大師の称号を贈られています。

 

 

日本仏教の基礎を築いた僧 最澄

 

 

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最澄は、日本仏教における天台宗を開いた僧です。

最澄



最澄は、767年、近江国で生まれました。

19歳のとき東大寺受戒し僧となった最澄ですが、そのころの堕落した仏教から離れ比叡山登って修行します。


10年余りにわたる 比叡山での修行により最澄が見出したのは、鑑真が伝えた天台の教え「人間は総てが成仏できる」と言う一乗思想でした。


804年、最澄38歳のとき、遣唐使船で唐に向かいます、同じ船には空海もいました。


唐に渡った最澄は、中国仏教の宗派である天台宗の教えを学び、翌年、天台山に登り多くの経典を得て帰国します。


日本に戻った最澄は、桓武天皇の庇護のもと、当時の主流宗派の奈良南都六宗と並んで天台宗を開きます。


最澄の開いた天台宗比叡山延暦寺は、その後の日本仏教に多大な影響を与え続けます。

 

比叡山延暦で学んだ人たちの中には、後の日本仏教界を指導者が多く出ました。

 

浄土宗の法然浄土真宗親鸞臨済宗栄西曹洞宗道元日蓮宗日蓮、等々各宗派の開祖も比叡山の出身です。

最澄は死後、伝教大師の称号を贈られています。

 

大和朝廷の侵略に抵抗した蝦夷  阿弖流為

 

 

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 阿弖流為は、平安時代初期の陸奥国胆沢地方の蝦夷(エミシ)の領袖です。


蝦夷(えみし)とは、本州東部以北に居住し、朝廷の支配下への帰属や同化を拒否していた人々に対する大和朝廷からの蔑称です。


朝廷は、東日本に古来より生活してきた人々を蝦夷と蔑称し、その生活圏の土地に言われ無き侵略を行いました。

 

断固、朝廷の侵略に立ち向かったのが阿弖流為いる蝦夷軍でした。


蝦夷軍は、阿弖流為と副将の母礼を中心に、789年から20年近くも蝦夷征服軍を撃破し続け、蝦夷の独立を保ちます。


朝廷の征討軍は、延べ20万人とも言われています。


802年、阿弖流為は、朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂にともに戦いを指導した母礼と共に投降しました。


征夷大将軍坂上田村麻呂とともに、桓武天皇に拝謁すべく平安京へと上京しますが、朝廷の公卿達の蝦夷の主導者アテルイとモレへの恐れは深く、拝謁出来ずに803年両名共に河内国杜山で処刑されました。

 

大和朝廷は、阿弖流為、無きあと、蝦夷の土地に国中から、4000人ほど移住させ日本国の平定を成したと宣言しています。

 

 


坂上田村麻呂の構築による京都、清水寺には、阿弖流為と母礼の碑があります。

 

阿弖流為(あてるい)
?~803年