時の朝廷は、敵対する奥羽地方の蝦夷にたいして、、度々軍を派遣していました。
789年には、陸奥国との戦いで、阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷軍に大敗します。
その後も蝦夷軍に敗れ続けた朝廷は、796年、坂上田村麻呂に、陸奥按察使、陸奥守、鎮守府将軍と陸奥に関する全権を与え、征夷大将軍に任じ征東軍を派遣します。
802年 長年に渡って続けられた陸奥国との戦は蝦夷の主導者、阿弖流為と母礼(モレ)の投降によって終息しました。
この陸奥国の平定により、朝廷は、日本国全土を統一したと言われています。
その後の田村麻呂は、朝廷の政治の中心にて、参議、中納言、大納言と出世しまし、死後は、従二位を贈られました。
後の世、田村麻呂は武人として尊敬され、征夷大将軍は武人の最高位とされています。
京都、清水寺は田村麻呂の創建とされています。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
756~811年 享年53