阿弖流為は、平安時代初期の陸奥国胆沢地方の蝦夷(エミシ)の領袖です。
蝦夷(えみし)とは、本州東部以北に居住し、朝廷の支配下への帰属や同化を拒否していた人々に対する大和朝廷からの蔑称です。
朝廷は、東日本に古来より生活してきた人々を蝦夷と蔑称し、その生活圏の土地に言われ無き侵略を行いました。
断固、朝廷の侵略に立ち向かったのが阿弖流為率いる蝦夷軍でした。
蝦夷軍は、阿弖流為と副将の母礼を中心に、789年から20年近くも蝦夷征服軍を撃破し続け、蝦夷の独立を保ちます。
朝廷の征討軍は、延べ20万人とも言われています。
802年、阿弖流為は、朝廷の征夷大将軍坂上田村麻呂にともに戦いを指導した母礼と共に投降しました。
征夷大将軍坂上田村麻呂とともに、桓武天皇に拝謁すべく平安京へと上京しますが、朝廷の公卿達の蝦夷の主導者アテルイとモレへの恐れは深く、拝謁出来ずに803年両名共に河内国杜山で処刑されました。
大和朝廷は、阿弖流為、無きあと、蝦夷の土地に国中から、4000人ほど移住させ日本国の平定を成したと宣言しています。
坂上田村麻呂の構築による京都、清水寺には、阿弖流為と母礼の碑があります。
阿弖流為(あてるい)
?~803年