887年、時の最高権力者であった藤原基経は、宇多天皇の詔勅で関白に推されるが、その詔勅に古の中国の官「阿衡」に習えとの事があったため、基経は激怒し政務を放棄してしまいます。
これは阿衡の紛議と呼ばれています。
藤原氏の権力は、朝廷において絶大なものでした。
その藤原基経に、当時讃岐の国司に過ぎなかった、菅原道真が長文の意見書を送ります。
これにより、基経は怒りを納め一連の事件は収まります。
宇多天皇は、道真を深く信頼し4年後に都に戻し蔵人頭に抜擢します。
その後、右大臣まで昇進し多くの文化的実績を残します。
しかし、天皇の信任に公卿達の反感が増大し、901年に権力者藤原時平に無実の罪を讒訴され九州大宰府に左遷されてしまいます。
道真は、大宰府の地で失意のうちに亡くなりました。
道真の死後、都では藤原氏の人々が相次いで早世したり、異常に発生した雷で多くの死者がでるなどします。
人々は、これを道真の怨霊の仕業として恐怖し、天神として祀りました。
「学問の神様」として、今も崇められる天神様です。