藤原秀郷の出自は、藤原氏北家の左大臣の藤原魚名の子孫と伝えられています。
幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので、田原(俵)藤田(とうた)ともいわれていました。
延喜16年(916年)下野国の在庁官人のとき、隣国上野国と抗争を起こし、一族17名とともに流罪とされました。
しかし、秀は命に服さず唐沢山(現在の佐野市)に城を築き勢力を保持しました。
天慶2年(939年)、平将門が関東8か国(上総・常陸・上野・下野・武蔵・相模・伊豆)の国府を攻めたて関東地方の大部分を支配してしまい、自ら新皇と称しました。
秀郷は平貞盛と連合して、将門の軍を下総国幸島
において攻め滅ぼします。
これを天慶の乱といい、秀郷はこの功績により押
領使から下野守になります。
さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、鎮守府将軍に叙せられ、死後、贈正二位を追贈されました。
その後、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出しました。