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父、忠盛は宋との貿易を行い、兵力、財力を蓄えていました。
父の死後、平氏の棟梁になった清盛は、1156年に起こった保元の乱で後白河天皇側にたち勝利を納めます。
その3年後に保元の乱で共に戦った源氏の棟梁、源義朝と平治の乱で戦い、これにも勝利します。
保元の乱、平治の乱で、平氏以外の有力武士が滅亡したため、清盛は朝廷の軍事力、警察力を掌握し公卿に代わる武士による政権を樹立します。
武士として、初めて正三位の参議になったのをきっかけに1167年には、太政大臣という最高官職に就きます。
平家一族も日本66国のうち半数の国を支配し、荘園は全国に500以上という繁栄の時代を築きました。
「平家にあらずんば、人にあらず」と平時忠(清盛の義弟)が誇ったほどでした。
平家による専横が激しくなると朝廷では、後白河法皇を中心に反平氏の気運が高まりだします。
1180年、日本各地の武将たちに打倒平氏の令旨が以仁王(もちひとおう)の名で、発せられます。
伊豆に流されていた源義朝の遺児、頼朝は令旨に応じて立ち上がり、源平の争乱が始まります。
清盛は、源平の戦いの結果を待たずに、病を発して息を引き取ります。
平清盛(たいらのきよもり)
1118~1181年 享年64